砂町原景

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昨日につづき、今日も江東区の砂町あたりを歩いてきました。やはり東西線の南砂町駅で下車し、目差したのは砂町銀座です。が、やはり、今日の写真も、その砂町銀座で撮ったものではなく、そのすぐ近くで撮ったものになりました。
今日は、砂町銀座に向かう途中、 小さな公園(仙気稲荷神社の元境内)の花壇に水やりをなさっているご婦人にお話を伺うことができましたが、その方が砂町に越していらした昭和40年頃、砂町一帯には葦原が広がっていて、いまよりも海岸が近く、当時建設された公団からは、東京タワーや富士山が望めた…ということでした。う〜ぬ、隔世の感あり…です。
そのお話を伺うまで、僕は、砂町あたりも、「荒川を挟んで江戸川区の対岸になるのだから、沼地が多く、蓮田があって…」と、判で押したような想像をしていましたが、やはり、同じ低湿地帯とはいえ、場所が変わると、土地の質から事情から、違ってくるものですね。
また、砂町銀座付近では、戦前からお住まいの方のお話を伺う機会がありましたが、砂町銀座あたりは、戦災で焼け野原になり、戦後、バラックが建ち並ぶ一帯だったといいます。
そんなわけで、今日の写真は、そのお二方のお話の匂いの欠片を感じて撮ったものです。ま、葦原とバラック…とはかなり異なりますし、「ただの空き地じゃないか」と言われると、その通りなんですが、歩いた範囲では、これが、わずかにではあれ、昭和中頃の砂町あたりの匂いを感じさせる風景のように感じられ、アップした次第です。

【場所】江東区北砂町4丁目あたりです。

コメント(15)

masaさん、こんちには。地図でみると、かつて海岸線が近かったこと、よくわかります。さらに、最近“マイブーム”の(^^;;国土地理院のサイトで、戦後すぐの空中写真をみると、女性の話しがよく理解できます。荒川を渡って右岸のほうにいくと、農村地帯です。東京湾にむかって土地が大きく張り出しています。東京湾の干潟がどんどん埋め立てられる高度経済成長期までは、この空中写真のような風景がまだあって、女性が昭和40年に引越しされたときも、まだその風景の残滓のようなものが感じられたのでしょうね〜。足立区のあたりだと、「足立区凸凹地図」にお書きになったように、「海」をイメージするためには、思いっきり想像力を駆使することが必要になりますが、昭和40年頃だと、このあたりでは、風の向きによっては潮の香りがしたかもしれませんね。

>wakkykenさん
いつものように、本文補強コメントをありがとうございます。そのご婦人の話ですが、「今では、東西線も新宿線も通っているし、マンションだらけで、まるで都心のようになったけれど、越してきた当時の砂町は、本当に辺境…という感じでさびしく、自分が落ちぶれたような気すらした」とも仰ってました。なんとなく、勝どきの長屋で耳にした話とダブリます。

masaさん、お忙しいなかお返事ありがとうございます。「辺境」「落ちぶれた」という言葉がズンときます。昭和40年頃でも、そうだったんですね〜。ところで、砂町だなんて、いかに海に近いという感じがします。でも、ちょっと調べてみると、ぜんぜん違っていました・・・。「砂村の村名は、明治22年4月1日、多くの新田を合併して代表的な、砂村新左衛門一族が開拓した砂村新田の名称をとり砂村とした」ということらしいです。いやはや・・・です(^^;;。

>wakkykenさん
やはり、聞いてみないと分からないことって、ありますよね。特に、人が感覚的に感じることは…。
そうそう、僕も土地が砂州だったから砂町となった…と思いきや、違うんですよね。でも、やはりご婦人の話ですが、この辺りの土地は砂が多いということでしたよ。

masaさん、「砂村新左衛門一族が開拓した砂村新田の名称をとり砂村とした」というのは、「砂村に住んでいた新左衛門の一族が、新田開発をした」ということですよね、よく考えてみれば。ということは、荒川が運んだ砂が作った土地なのかも・・・。きちんと資料にあたっていないので、なんていいますか「ヤカンは、矢があたると『カンっ!』となるから、ヤカンなのだ」、みたいな話しになってしまって・・・。いいかげなんことを書いてしまってすみません(*^0^*)。今回、戦後すぐの空中写真を見て、荒川一本はさんで、ずいぶん雰囲気が違っているということが視覚的にわかってよかったです。

「砂村新左衛門一族が開拓した砂村新田の名称をとり砂村とした」ですが、それではこの砂村一族は、どんな人たちだったんでしょうか?

じつは砂村一族は、深川を開拓した深川八郎衛門とおなじ摂津出身だったんです。しかも砂村一族は、横浜野毛新田、横須賀久里浜の内川新田も開拓しています。つまり、江戸湾岸の開拓は摂津出身の人々が行ったんです。今風に言えば、彼らは、関西系のデベロッパーですね。もともと江戸の町は、三河からきた徳川家康によって開発が進められたので、そのルーツを掘り下げると関西へたどり着くものが多くあります。たとえば、佃島の名前も摂津佃村によるものですね。

話を東京低湿地に戻すと、金魚の養殖池がありました。これは子供の頃、社会科の見学コースになっていて、田圃のような四角い池がたくさん並んでいました。いまでも江戸川区に残っているそうです。

masaさん、じんた堂さん、こんばんは。じんた堂さん、携帯で、じんた堂さんのコメントを拝読して、電車から携帯で投稿しています。かなり、興奮しています!!帰宅後、あらためてパソコンからコメントいたしますo(^-^)o。

masaさん、先日は‘谷根千’情報ありがとうございました。さっそくチェックさせていただきました。
‘砂町’シリーズは、‘枯壁’といい 全体に渇いた感じがなんとなくワイエス的な世界をほうふつとさせます。

masaさん、じんた堂さん、こんばんは。先ほど、帰宅いたしました。じんた堂さんに教えていただき、感謝いたましす。佃島のルーツが、現在の大阪市西淀川区であることは知っていましたが、江戸期の開発も「関西系のデベロッパー」によっておこなわれたとは知りませんでした。都市としての江戸が開発された時期、その周辺部分(食料供給地)も含めて、どのように「公共事業」がなされ、現在につながっているのか、そのあたりことをもっと知りたくなりました。河川や運河については、少しだけ勉強していたのですが、埋め立てや、新田開発も重要ですね。じんた堂さんのコメントを読ませていただき、中国に出張したときのことを思い出しました。海ではありませんが、長江沿いの低湿地に広がる広大な葦帯です。ひょっとして、「関西系のデベロッパー」によって新田開発される以前も、そのような一面の葦原の世界だったのではないのかと想像しています。そのように想像すると、masaさんがエントリーの本文でお書きになっている「昭和40年頃、砂町一帯には葦原が広がっていて、いまよりも海岸が近く」という部分が、めちゃくちゃリアルに感じられるんです。

>wakkykenさん、じんた堂さん
こんばんわ。コメントをありがとございました。もう既に用済み…という感じですね。しかし、佃島のエピソードは知ってはいたものの、砂町辺りが「関西系のデベロッパー」によって開発されたことは初耳でした。いやいや新鮮でした。
ただ、東京の地名由来辞典の"砂町"の項には、「砂村新左衛門の出身地は摂津国上福島とされたが、越前国砂畑村とする説も出されている(江東区史)。なお砂村新田の名称については、当地が海浜の砂地であったことにより砂村新田と称されたとする説もある(葛飾志)。」とあります。
したがって、若干の疑問符は残しておいたほうが良さそうですね。

> flat-well さん
こんばんわ。紹介させていただいたブログ、ご覧になられたようですね。街歩き情報としては、ウロウロさんは充実してますでしょう。しかし、ワイエス的…とのお言葉…。実は、僕は、この言葉に弱いんです。なんせワイエスが大好きなものですから。ありがとうございましたm(__)m

masaさん、おはようございます。東京の地名由来辞典には、そんなふうにのっていましたか。暫定的に「当地が海浜の砂地であったことにより」ということにすると、頭のなかには、この地域が江戸以前にどんな場所だったのか、頭のなかにイメージがわいてきました。原・景観なんて言葉は聞いたことがありませんが、人間との接触が活発になる以前のこの地域の景観のようなものが頭のなかに浮かんできます。葦は砂地を好みますが、蓮は泥化したところを好むらしいです。

>wakkykenさん
こんにちわ。どうやら、同じ低湿地でも、川の上流域と下流域、そして埋め立て地、それらの地質の違いに注目する必要がありそうですね。川沿い低地と海沿い低地…などと言うと、もっとドキドキしますけど(^^;
いや、wakkeykenさん、じんた堂さんのコメントから、イメージ膨らんできました。妄想で終わりそうな感じもありますが(^^;

masaさん
砂町によーこそ。
南砂町の住人です。

>小道さん
こんばんわ。その後、ご無沙汰しています。なんと、南砂町でいらっしゃいましたか〜。ちょっと、しばらく、質問責めさせていただくことになりそうです(^^; 宜しくお願いいたします!



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