松島の旧カフェー

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江戸川区松島の旧カフェー街に残っている建物です。家の角のカーブなどを見ると、この建物がカフェーであった頃の名残かな?と思わされます。
この周囲には、以前のエントリーこちらこちらで紹介した建物がありますが、それらトタンの建物とはかなり雰囲気が異なります。その違いが、業種の違いによるものなのか?否か?が分からないところが情けないのですが...。
ともかく、この一画は、手前の空き地を見てもわかるように、再開発されることは、ほぼ間違いないようです。したがって、この写真を撮ったのが今年の1月ですから、もしや、この建物も既に...という、ヤな予感(^^;すらします。
しかし、そう思って見るからか...何の変哲もないモルタルの建物ですが、シュロの木と外灯が妙にマッチしていて、なんとなく艶めかしさを感じるのですが...。

【場所】江戸川区松島3丁目あたりです。

コメント(9)

masaさん、こんにちは。正面の「オープンになってしまった路地」の街灯の灯りと、背後のオレンジっぽい通りの灯りとが対照的で、ちょっとした別世界をつくっているように思います。時々、このタイプの作品が『Kai-Wai散策』には登場しますが、開発で空き地ができるから、そのような対照を含んだ作品の撮影も可能になるのかと考えると、静かな世界の背景にある緊張感も伝わってきます。最近のマイブームは、「街・町の記憶」ってことです。現在の街・町の新陳代謝のスピードって、人の人生のスピードよりもずっと早いですからね、「街・町の記憶」を担保できません。これって後々になってズーンと効いてくるような、深さをもった問題なのだと思います。経済活動とともにどんどん変化していく盛り場のような場所があるにしても、人の暮らしの根っこにある風景ってのは、本来は、その逆であるべきなんでしょうけれど。

masaさん、すみません。↑のコメントにある「そのような対照を含んだ作品」って、よくわかりにくい表現でした。たとえば、一番典型的なのは「分光嶺景」(2006年10月27日)のような写真のことです。
http://kai-wai.jp/001031.html

wakkykenさんのコメントの「後々になってズーンと効いてくるような深さを持った問題」に 同感いたします。
「まちの記憶」がズタズタになって行っている、それを意識するだけでも 暮らしぶりは変わるはず・・・と信じて 色々なことをしてきましたが、ここに来て「まちの新陳代謝のスピード」には 到底追いつけないんじゃないかという絶望的な焦りが生まれています。

「Kai−Wai 散策」が提示してくれている根本的な「まちと人の有りよう」を これからも私自身のこととして 見せていただきたいと思います。

>wakkykenさん
そうですね、最近アップした本郷のトタン家もしかりで、取り壊しによって撮影可能になった…という皮肉な風景って、特に都会では、多いですね。最近の開発は、スピードの早さも凄いですが、規模も大きく、道も地形も土地の記憶も、すべてを真っさらにして…というのが多いですね。
郷に入れば郷に従え…なんて言って、まずはその土地やまちをよく見て、それから…という姿勢があったと思いますが、いまや、そんな言葉は無いも同然ですね。
いま、wakkykenさんへお返事を書きながらふと思いつきましたが、こういった「風景の孤児」をつくってはいけないのでは?と…。風景は他の言葉にも置き換えられますが…。

>光代さん
僕も、その言葉に同感します。記憶喪失した人間が、それを取り戻そうともがくのと同様に、記憶喪失したまちは、いずれ、もがき苦しむような気がしてなりません。
僕は、wakkykenさんや光代さんのように、まちの素である人々との関わりの濃い活動はしていませんが、これからも、同じスタンスで歩きつづけようと思っています。

masaさん、光代さん、こんにちは。masaさんの「風景の孤児」という言葉は、良い言葉ですね〜。問題の本質を、キッチリと把握できる概念ですよね!!↑の自分のコメントに付け加えれば、これまで街・町が蓄積してきた記憶をどうするのかという問題とともに、これから人々が関わり合うなかで生み出していく記憶の問題も大切だと思うのですが、人々が関わり合うことができない街・町になってしまっては・・・なんですね。記憶を大切にしていくことと、これからの記憶を生み出していくことが、人々の生活のなかでうまく結びついているといいんですが、そうはなっていないのですね〜。残念ながら・・・。それから、それから。言うまでもないことですが、masaさんが「同じスタンスで歩きつづけようと思っています」とお書きになっているスタンスを、光代さんも僕も熱烈に応援していま〜す。「热烈支撑!贯彻始终支援!」(この中国語、間違ってるかもしれれません・・・。あっ、それから光代さんと相談したわけではないですけど、光代さんも気持ちは一緒だと思います(^^;;)。

>wakkykenさん
こんばんわ。お返事が遅れました。記憶にも様々な側面がありますが、ちょっと大胆に一言で言ってしまうと、「記憶の連続性欠如」ということが、ひとつの大きな問題だ…ということなのでしょうか。そう考えると、最近の開発は、規模によらず、そういった連続性の確保とは反対に作用するケースが多数見られますね。
また、確実に、人の関係を薄める方向にありますよね。個々が隔離され、リエゾン部分がとにかく無くなってゆく…という気がします。
例えば、ブログで知り合った人でも、実際に会うと、その後のつながりがより強固なものになる…ということと同じだと思いますが、共有する時間と空間…これもMyPlaceなのでしょうが…というものが、まちにとってはとても大切だと思わされます。

wakkyken様
「相談したわけじゃない」のに 代弁してくださって有難うございます!!!
でも、その通りですわ!良くご存知で。

wakkyke様 masaさん
私が今 不安に感じているのは 新しく「記憶」を生み出すと言っても もう既に私たちは限りなく実存出来なくなっていて 
日々の営みを重ねて記憶とするには余りにも薄い存在となっているんじゃないかと言うことです。

「営む」前に 地に足をつけて「存在」すると言うことすら 希薄になっているようで・・・・。
今、私たちは いかように存在するかを 問われているような気さえしています。
オープンになってしまった路地を どう捉えるか・・・興味深いテーマです。

>光代さん
コメントをありがとうございます。う〜ん、かなり形而上的なイメージを含んだご意見ですから、なかなか難しいですね。しかし、確かに、東京では、人の匂いが弱まっているのを感じます。それは、海外から帰ってきたときに特に強く感じます。存在感の希薄化…という以前に、人間力の衰退…のようなものを…です。これは問題が大きすぎますが、個としては、やはり、コツコツを繰り返す以外にないのでしょうね。



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