小菅の地図&ガイド

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葛飾区の北西端にある小菅というまちは、東京拘置所のあるまちとして知られていますが、拘置所が置かれるずっと前から人の暮らすまちが存在し、その歴史が思いのほか古いことは、あまり知られていないように思われます。
しかし、現地を歩き、住人の方々にお話をうかがうと、とても興味深い土地柄であることが分かってきます。そんなことから、自分でも思いもよらず...でしたが、つい、地図を広げたり、何度か足を運んだり...ということになってしまいました。
というわけで、小菅はこれからも注目の地(^^;になりましたので、ここに地図や資料をアップしておくことにしました。

以下は、『江戸明治東京三層重ね地図』で見た、小菅から北千住一帯の地理的変遷地図です。
左が明治期、右が平成期、中央が両者を重ねた図です。


以下は全て、こちらで頂いた資料です。
左は『小菅御殿古図 』(三層重ね地図にも江戸期の小菅あたりは記載ありませんので、貴重か...と)
中央は『小菅御囲内地域図』(江戸期の籾蔵や銭座の位置が分かります)
右は『小菅史蹟案内図』(地元の方が制作なさったものと思われます)




やはり地元の方の手になると思われる、小菅紹介の小冊子です。
冊子の内容:
小菅御殿と東京拘置所 / 小菅稲荷神社と「小菅御殿の狐穴」
松原通の由来 / 豊かな水運と水害をもたらした綾瀬川
武士と八幡神 / 水戸橋の由来 / 小菅の旧水戸街道(水戸佐倉道) / 小菅銭座跡
合歓の木の綾瀬川

【場所】葛飾区小菅1丁目あたりです。

コメント(11)

masaさん、漸く春眠から醒められましたか?
渋谷センター街の今様外人には、心配しました。
ヤレトタン、瑠璃トタンに意識が戻られて、ジイは
安堵しました。
小菅界隈には世の有為転変を、強烈に感じます。
官僚が、この地に官舎持つのは良きことです。
序でに永田町の方達もどうでしょうか?
それにしても官軍とは・・・、私等は彰義隊の美学は
分かっているのですが。

>FKSnoopyさん
こんにちわ。コメントをありがとうございます。いや〜しばらく時差ボケておりました(^^;が、このところ、繁華街を離れ、下町に戻っています。下町系にやはり安堵感をおぼえますが、これからも時々時差ボケて都会へ!とは思います(^^;
ところで、小菅界隈ですが、お上のご都合だけでこれだけひどく振り回された土地もないのでは...と思うくらいに振り回されていますね。こんどは開かれた拘置所のあるまちとなるようですが、永田町の住人でいらした方々は、東京湾に塀付き離れ島をつくりそちらでごゆっくり(^^;と思います(^^;

 あどーも。
 明治初期に作成された陸軍迅速側図という地図があるんですよ。いま著作権がどうなっているのかよくわかりませんが、基本線切れてるとは思うのですが公開されているやつにはあとから付け加えられた道路とか鉄道とか河川とかが上書きされているのでそこらへんが微妙なんですが、それから小菅あたりを抜き出したものを作ってみました。以下のURL。

http://nekosuki.org/temporary/temp/rikugun-jinsoku-sokuzu-kosuge.jpg

 長くは置いておきませんので、必要ならばダウンロードしておいて下さい。

 陸軍迅速側図は、今のところ、次のURLから閲覧できます。

http://habs.dc.affrc.go.jp/

>猫が好き♪さん
こんにちわ。小菅一帯の陸軍迅速側図、ありがとうございます。早速ダウンロードさせていただきました。三層重ね地図の元本となっている地図は、『大日本帝国陸軍測量部一万分一』ということですから、アップしていただいた地図の約20年後の地図...という感じですね。当時の20年間の変化はそう大きいものではなさそうですが、資料があれば、何か...というときにきいてきますよね。地図のアップ、重ねてありがとうございました。

(いただいたコメントがブログに自動反映されなかったようです。申し訳ありませんでした。MT4はにはホトホト...です(^^;)

 あ、いや、コメントの即時反映なんてweblogの常識じゃないですからお気になららず。今回のは「必要ならば陸軍迅速測図を見るって手もあるで」という情報提供が主眼だったので、その範囲で伝われば十分です。
 サービスとしてはいろいろ不便な点はあるんですが、情報としては、これとても面白いでしょ(=^_^;=)。「なんで全国の測図をやらんかったんだおまいらっ!」とか叫びたくなったりもするのですが、当時もそれなりに事業仕分けとかあったんでしょうねえとか。なにをどう仕分けるかっていうあたりが、きっと「肝」なんですよ、なんてね。

>猫が好き♪さん
こんばんわ。今夜は、MT4くん...自動反映してくれたようです(^^;
ネットの世界が一般的なものになってからというもの、地図にしても文にしても写真にしても...とにかく氾濫するほど情報が存在しますが、いざピンポイントで欲しいとなると無かったりするのが情報ですね(^^; したがって、今回紹介していただいたサイトなど、有益なサイトやサービスが在ることを頭に入れておくことはとても有用ですね。なんとなくアナログにクラウドな感じですけど(^^;(^^;
しかし、測量した範囲を読んでいきますと、きっと、当時の軍部の都合というものが解るのかも?ですね。僕はとてもそこまでは...ですが(^^;

明治期の地図に、なつかしい地名を見つけましたが、さて、なんで記憶したかが、思い出せません。

1は、牛田という地名。たしか、あのあたりに現存していた牛田稲荷社でおぼえたとおもいます。江戸時代の文章でした。

2は、越前浜街道。牛久だか竜ヶ崎だかに行った時、図書館の前の道がそんな名前でした。

ほんと、小菅と牛久が越前浜街道でつながつていたようなんですね。

>chuukyuuさん
ご執筆&町会でのお骨折り...の最中ですのにコメントをありがとうございます。
牛田という名は、明治の地図には牛田道として記載されていますが、現在は駅名として残っているだけのようですね。町会名として残っているかどうか次回にでもチェックいたします。
越前浜街道のほうですが、水戸街道は間違いなく牛久と竜ヶ崎を通っていますから、ご記憶に間違いございません! しかし、牛久とか牛田とか、牛の絡みが気になります(^^;

 陸前浜街道についてchuukyuuさんに追加レス。
 江戸時代にも江戸と仙台をつなぐ街道はあったのですが、それは水戸で区分けされていて、「江戸と水戸の間」と「水戸と仙台の間」と二分されて扱われていたようです。前者が水戸街道、後者が岩城街道。それぞれ、別名は山ほどありました。
 明治時代になってから、徳川家の威信を軽減したかったのでしょう、「水戸徳川家に由来する水戸での区分」をやめようってことになり、江戸~水戸~仙台を全部まとめて「陸前浜街道」と呼ぶようになりました。つまるところがまあなんだね、江戸~水戸の間だけでいうなら「陸前浜街道=水戸街道」です。
 水戸街道の全線歩きはまだ終わっていませんが、小菅と牛久の間はもう歩き終わりました。えーと、道は確かにつながっています。まあ昔の健脚の旅人ならば一日か一日半くらいの行程だったのじゃないかなあと思います。途中の古い国鉄の踏切には「陸前浜街道踏切」みたいな名称の踏切がそこそこあったりして興味深かったです。
 なお、龍ヶ崎ですが、水戸街道古道は通っていたようなのですが、江戸時代初期からは別ルートになって、龍ヶ崎は通らなくなりました。水戸街道古道も歩いてみたいなあと思っているのですが、思っているうちにまた夏になってしましました。夏、あの区間を歩くのはつらそうなんだよなあ(=^_^;=)。
 更なるおまけ。江戸時代初期以降の水戸街道も、牛久は通っていました。でも、牛久よりも龍ヶ崎の方が、今見られる町並みとしては、得点が高かったりします(=^_^;=)。

牛久って、三河国の牛久保に関係あるのかなって、ちょっと『旧領旧高』を検索したら、上総(市原郡)、上野国(都賀郡)にもあり、常陸国(河内郡)の牛久村は秀吉から由良氏が拝領し、その後、山口氏による牛久藩(1万余石)が立藩されていました。
関東は馬、関西は牛といいますが、関東にも牛地名があったんですね。
江戸にも牛込区。

>猫が好き♪さん
陸前浜街道情報をありがとうございます。なんと、小菅牛久間を歩かれたとは...感心します(^^; ま、だからこその猫が好き♪さんの情報量なわけですね。


>chuukyuuさん
牛絡み...けっこうあるものなんですね。ご多忙中、重ねてのコメントをありがとうございます。



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