看板建築 "連"

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超級のお天気に恵まれた体育の日、行こう行こうと思いながらなかなか...だった、菅沼書店(健在でした!)のある北品川に行ってきました。

これまでなら、北品川の駅で降りて、駅前を通る旧東海道を南下して...というコースで菅沼書店をめざしたに違いないのですが、今回は、自転車で行きましたので、駅から離れたところを通りました。

その途中で目に入ったのがこの看板建築でした。2階に"連"とあります。なんとなく看板のような看板ではないような...。で、ネット検索してみると、"連"という屋号の(洋風?)小料理屋さんのようです。

ところで、この建物ですが、右後方にある高台(御殿山)への登り口とも言える位置にたっています。また、こちらのお店のHPには以下のように書かれています。ちょっと長くなりますが、引用させていただきます:
「当店は、江戸落語でお馴染みの「居残り佐平次」に登場する鰻の名店「荒井家」さんの跡を拝借し開店しております。場所は旧東海道、品川宿へ上がる坂道の入り口角。」
「魚介類の宝庫・品川浦が目の前に広がり、背後には桜の名所・御殿山、紅葉の名所・海安寺の山が連なり、そして水清らかな目黒川が流れる。海と、山と、川に囲まれた品川宿は、江戸の人々にとって日帰りの観光にもってこいのレジャースポットでした。しかもそこは、大小の料亭が軒を連ねるグルメスポットでもあり、浮き世を忘れて遊びに興じるプレイスポットでもあったのです。それはまさに、日本に初めて登場した一大テーマパーク、24時間眠ることを知らないエンターテイメントタウンだったのです。」


なるほど...です。それで目の前に船溜まりがあったりするわけです。というわけで、この記述の雰囲気を地図(というタイムマシン(^^;)の力を借りて感じとろうと、『江戸・明治・東京 重ね地図』を立ち上げてみました。が、残念なことに、この場所は圏外...収録されていません( を参照ください)。ならば、先日発売されたばかりの iPhoneアプリ『東京時層地図』です。

こちらにはこの場所がカバーされていました。そこに収録されている地図の「現在」と「文明開花期(明治9年 - 19年)」を重ねて透過表示させた(パソコン画像ソフトで)のがこの地図です。そして、赤丸がこの建物がたっている位置です。もう海が目の前です。品川浦という語がぴったりであることが分かります。う〜ん、なんだか、この建物の2階から品川の海を見晴らしているような気分になってきました(^^;

追:『東京時層地図』の「現在」と「段彩陰影(凸凹地図)」を重ねて透過表示させた(パソコン画像ソフトで)地図を追加しました。こちらです。

追: 『江戸・明治・東京 重ね地図』に収録されていない...というのは間違いで、ちゃんと収録されていました。失礼いたしました。あらためて、同地図から、以下の部分を引用掲載させていただきます。左から、江戸、明治、現在です。



【場所】品川区北品川1丁目あたりです。

コメント(25)

"連"は広重・名所江戸百景の『品川御殿やま』の崖下の海岸辺りに位置するのかな。
>透過表示させた(パソコン画像ソフトで)のがこの地図
これは解りやすくて良いですね。
大正四年生まれ(1915)の母は子供の頃に品川で海水浴だか潮干狩りをしたと言ってました。『東京時層地図』では昭和になると埋め立てが始まってますから、母の世代が品川で海水浴を体験した最後の世代でしょうね。

>iGaさん
こんにちわ。『品川御殿やま』を見ましたが、御殿山の桜の様子と、"連"HPの記述を合わせて考えると、その崖下になりそうな気がしますね。というか、そう思って見ちゃってます(^^;

この手のデジタル地図の場合は、透過すると位置関係がかなり解りやすくなりますよね。『東京時層地図』のほうもその機能が付いてくれたらな...と思います。

iGaさんの母上は僕の母より10歳上でいらっしゃいますが、それでも、我らの母の世代にして、品川や大森の海岸で海水浴とか潮干狩り...ですから、その後の変化のスピードと規模が異常なんですよね...きっと。

 あどーも。
 この建物はおれも撮影してる・・・ような気がします。と思ってチェックしたら、やっぱ撮影してました。

 さて、地図ネタ。
 『江戸・明治・東京 重ね地図』にも興味は惹かれたのですが収録エリアが狭いなあと思って買うには至りませんでした。Yahoo!かどっかで無料公開している間に全データをダウンロードしてはおいたのですが(あれをダウンロードする手間をかけるくらいだったら買ったほうがよかったのではないか?(=^_^;=)>おれ)。

 で、『江戸・明治・東京 重ね地図』より無愛想でブッキラボーなんですが、収録範囲は広く、便利なのが『今昔マップ』というソフトウェアです。ご存知ないということはあるまいと思うのですが、まあいろんなひとに教えてあげたいので、余計なお世話的言及。公式サイトは以下のURLのようです。

http://ktgis.net/kjmap/

 埼玉大学のかなり物好きな研究室が作ったもので、国土地理院などのデータを駆使して年代別地図を重ねて照合しようというしろもの。全データをダウンロードしようとするとブロードバンドでも死にそうになりますが(おれの手元チェックでは、61130ファイル5.02ギガバイト)、まあそんだけの価値はありました。以前はディスクサービスもやっていたようですが、それはもう終わってしまっており、あとはダウンロードするしかなくなってます。
 このソフトウェアでは、最古のものは陸軍迅速図なので、江戸時代まではカヴァーしていないのですが、まあ迅速図まで遡ることができればそこそこ江戸時代にまで推測の翼を広げることはできます。

 この「連」のある、看板建築がある場所は、海が目の前というか、もしかすっと海の中だった可能性もあるくらいの波打ち際ですね。
 いやあ。東京湾のこのあたりって、確かに「はぁ?」みたいな感じはあったりしますわねえ。目黒川の川筋の変化あたりも、「はぁ?」という感じだったりします。

 前にもお話ししたかもしれませんが、私の高校がかなり近いところにあったものですから、この近所の同級生が何人かおりました。品川の里が残っていたのは私たちが小学生低学年の頃ですから、彼等は最後のあの里の様子を知っていましたよ。

 「全部風呂屋だと母親から聴かされていた」ってんですから、ノー天気な野郎どもで。

>猫が好きsan
こんばんわ。いつものことながら、貴重な情報含みのコメントをありがとうございます。
この建物はなんせこの位置とこの見た目ですから、きっと多くの方がカメラに収めていらっしゃいますでしょうね。ま、1階が店になっている...というのは、ちょっと残念な気もしますが、こうして残るほうが取り壊されるよりどれだけ良いか...と思えば、お店の方の感謝したい気にもなります(^^;

ところで、僕は『今昔マップ』の存在を全く知りませんんでしたが、世の中には、奇特な方(猫が好きsanを含めます(^^;)がいらっしゃるものですね〜。かなり時代の刻みが細かいですから、いかにも実用度が高そうに思いました。しかし、ブラウザはともかく、地図データのダウンロードがきつそうですね。まあ、ダウンロードできるということ自体がとても有り難いことです。また、おっしゃるように、明治初期までは、あまり地形に変化ありませんから、信頼できない江戸期の地図を生んで(^^;しまうより、信頼できる範囲で切ったほうが良いような気もします。

また、三層重ね地図ですが、確かに高価ですし、信頼できる切り絵図が残っている範囲しか収録されていませんが、二つの時代を重ね、透過率を変えながらのブラウズという特徴は何ものにも変えがたく感じることがあります。実に時代による変化が把握しやすいです。

とはいえ、埼玉大学の奇特な方には大拍手を送りたいと思います。

それにしても、東京は、川も海もすっかり日常から遠ざけてしまいましたね。この建物のすぐ近くに鯨塚なるものがあり、地面から突き出すかたちで鯨頭部の彫刻据えられていますが、なんだかなさけないです(^^;

>nsw2072さん
こんばんわ。あ〜品川の里をご存知の世代がまだそんなお歳なわけですね。そうしますと、なんだか僕のイメージよりついこの間まで...という気がしてきます。あのあたりは、芝浦から大田区南部に引っ越した機械工場主(当時はバリバリの技術者でお金持ちが多かったそうです)がよく通ったと聞きます。しかし、風呂屋...ですか(^^; まあ、部分的にはあたっているような気もしますね(^^;

こんばんは。ご承知のとおり「居残り連」は以前は荒井屋さんという鰻屋さんでしたが廃業してしまい、この建物を何とか保存しようと、地元の商店街が起業して始めたレストランです。

この界隈を町名八ツ山といい、私の実家は居残り連の通り向かい、今はマンションが建設中の奥にわずかに二軒長屋が並ぶ一角にあります。周りはほとんど借家ですしいつまで在るか、といった感じです。また品川にお立ち寄りの際はぜひ!

「珍奇絶倫 小沢大写真館」という文庫本があるのですが、同書の「つわものどもが夢の後 東京・旧赤線めぐり」という特集で品川宿が紹介されています。
蕎麦屋と菓子屋の間の細い路地を入り、低地へ階段を数段下りると、突き当たりは「かつて私もオジャマしたことがあるなつかしいオウチ」だったというくだりがあります。

私が生まれた時にはすでにそういうところは無かった...はずですが、小さい頃の記憶をたどると、まだその頃は何十分の一ぐらい当時の匂いが残っていたようなそんな気がします。そのおウチはもとより、菓子屋も路地も今はありませんが...

たびたびすみません。
上のコメントには直接的な表現があるので、不適切な場合はご遠慮なく変更または削除してください。

昔にさかのぼれば旧東海道より下がる部分は海で、もちろん私の実家があるところも海の中だった...ということになります。祖父母が移り住んだ時-70年ぐらい前になるはずですが-でもバス通りのあたりは海苔を干していたと聞きました。
こちらのサイトに、ちょっと前の八ツ山交差点の写真があります。

http://www.pp.iij4u.or.jp/~keiichir/yatuyama.htm

ちなみにあのチャチなクジラの模型があるところは利田神社といい、鯨塚があります。その昔品川沖に迷い込んだ鯨を品川の猟師が捕り(あの辺は猟師町でした)、その鯨の骨を埋めたそうです。

>とら子さん
おはようございます。菅沼書店さんの時につづき、また地元の方のお話をありがとうございます。お残しいただいたコメント...不適切どころか...貴重そのものです。ありがとうございます。

しかし、こちらのレストラン開業にはそういう話しが秘められていたのですね。そう思えばますますお店の方への感謝の気持ちが強くなります。
そしてそうでした...この辺りは、僕はまったく馴染みのない所ですが、御殿山とともに八ツ山という地名(町名)はよく耳にしますね。

品川の里のことですが、僕は小沢昭一さんの音系(日本芸能)は持っているのですが、写真系は持っていません。その辺りのことが掲載されていることもあり、やはりこの際入手しなくては...なんて思いました。

ところで、まさかとら子さんのご実家が、あの日本家屋の集まる一画周辺だとは思いもよりませんでした。いや〜いまはご近所ですし、ほんとにうかつなことはできませんね(^^; しかし、こう言っては何ですが、あの一画も、残念ながら、これから先そう長い間姿を見るわけにはいかなくなるのでしょうね。ほんとにまちがどんどん記憶を失っていきます...。

また、鯨塚ですが、あの石の彫刻自体はかなりなものだと思うのですが、あの設置のしかたがまずいような気がします。いっそ神社境内に移したほうが...と思いました。

いや、それにしても、お話をうかがわせていただき、北品川あたりへの興味倍増...掘る場所もすこし見えてきた気がします。本当にありがとうございました。それにしても、あのあたり...いまでも味がありますね〜。

PS: ご実家のある一画の写真にリンクしてくださってありがとうございます。お気づきにならない方もいらっしゃろうかと思い、こちらにURLを掲載させていただきます。
http://bit.ly/9EiPE0

確か、何かで見た事があると、テレビ東京の「出没!アド街ック天国」を調べたら2006年11月25日放送分の『北品川』で紹介されてましたですね。
http://www.tv-tokyo.co.jp/adomachi/061125/30.html
...んな訳で昨晩は六代目三遊亭圓生のDVD全集で「居残り佐平次」なんてぇ聴いたりして...

そういえば昨年休刊となった雑誌『国文学』で確か70年代に...品川宿...を特集してました。それは、本棚を整理したときに古本屋に来てもらって売ってしまいましたが、以外に高額で倍値が付きました。因みに品川宿の常連は増上寺の僧侶だそうで...東海道を藤沢まで下った『鈴ふり』の噺も...成程納得...

>iGaさん
いや〜まったく鬼のような記憶力(^^; あきれるほどに感心いたします(^^;
しかし、なんだか、最初にこの建物を見た印象がかなり変わってきました。なんせ「和風イタリアン」だとか「近隣のOLたちで賑わいます」ですもんね...。

ところで、僕も「居残り佐平次」を聞いてみなくては...とう気になっていました。ほんとにこの歳になって落語のラの字も知らないという無粋さ...困ったものです。明日にでも図書館へ!です(^^;

ま、それはそうと、品川宿の常連は増上寺の僧侶...ですか。ま、どうもこの里は、芝と縁があるのですね。で、『鈴ふり』...いやもう、そればかりか木魚叩きすらできそうで(^^; もう説得力もギンギンでございます(^^;

あの長屋群の関係者がいらっしゃったとは、さすがKai-Wai散策でございますね。以前(北品川を)訪れたときには、その長屋の路地に入ることは憚れましたので、わたくしは対岸の橋のほうから、品川駅前の高層ビル群を背景に撮影をさせていただきました。
そのときには道を隔てた「連」の建物に気づかなかったのでしょう。まるで記憶がございませんもの。迂闊でした。

幕末には薩長の連中も、品川の廓を利用していたようですね。
高杉晋作の都々逸「三千世界の鴉を殺し、主と添寝がしてみたい」にあるように土蔵相模という遊郭に泊まっていたとか。添寝して骨抜きにはさせられなかったようですが、、、

>M.Niijimaさん
こんばんわ。いやNiijimaさんも本当によく物事をご存知ですね〜。僕はその逆になんとも物事を知らずに大きく(^^;なってしまいましたので、「見ちゃいらんない...」とばかりに、素晴らしいコメントを残してくださる方が多くなったのだと思います...当ブログは...はい(^^;

しかし、僕も、その長屋区画(いまは更地部分もあります)に入ることは憚られました。というわけで、Niijimaさんと同じく、橋のうえから撮ってきました。それにしても、あの橋と連とはもう目と鼻の先ですが、路地1本違うと景色が違うというように、そんなもんですよね。僕も、北品川の駅前を何度か通っていながら、この場所は未踏になっていました。

薩長...高杉...などと言います、僕は長州人ですから、どこか近いものを感じます。僕がこの辺り惹かれるのはそこに理由があったのでしょうか(^^;(^^;

>iGaさん
文京区の図書館蔵書チェックしましたら、”CD 圓生の居残り佐平次“ は全て貸出中。ならば...と、YouTubeにいってみると、ありました。確かに、居残る佐平次が、「荒井屋からうなぎをとって...白焼きでいっぱい...その後、蒲焼きをご飯のうえにのせてお茶でもかけて...」という具合に登場しますね。

masaさん、度々すみません。品川宿のことが気になり、少しネットを徘徊していましたら川島雄三監督(「洲崎パラダイス」の方ですね)の映画「幕末太陽傳」が品川宿を舞台にしているとのことで、夕べ遅くに早速DVDで見てみました。
「居残り佐平次」(!)の話をベースに、そのほか「品川心中」「三枚起請」「お見立て」など廓もの落語からのサイド・ストーリーも併せ持つ喜劇は、甚く楽しかったです。(高杉晋作=石原裕次郎も出てきますし、品川心中の貸本屋役で、あばた顔メイクした小沢昭一も!)
有名な映画のようですから、既にご覧になられている方も多くいらっしゃるでしょう。
またオープニングのタイトルバックからスタッフ、キャストのクレジット・バックで、製作当時(昭和32年ごろでしょうか)の北品川の様子が映し出されていたのが興味を倍加させてくれました。おそらくは翌年、新法律の施行で廃業に追いやられたであろう業種の店先が見られるのは貴重でありましょう。

>M.Niijimaさん
何をおっしゃいます...コメント何度だろうが大歓迎です! ありがとうございます。
映画(だけじゃない!という声が聞こえますが(^^;)に疎い僕ですから、その「幕末太陽傳」についても当然のように知りませんでした。「洲崎パラダイス」のほうは、ちょっと前に、神保町の黒塊劇場(^^;で、期日時間とも限定して上映されていましたが、それも見逃してしまい、残念に思っていたところでした。
しかし、あっちが州崎ならこちらも州崎と呼ばれていたそうです。ともに海のそば...そして里。確かにともに砂地であって、同名の地名があってももおかしくない条件が揃っていますが、もしや住民の方々が同郷であったり、同じ系統の神社があったり...なんてことがありそうな匂いがします。これはちょっと掘ってみたくなりますね。そんな意味でも、見逃せない映画をご紹介くださり、大変ありがとうございます。DVDがあるのであればぜひレンタルして観ようと思います。

神社関係でいきますと、江東区の州崎神社は、
厳島神社の御分霊祭神杵島比売命を奉祀しており〜中略〜元禄十三年、江戸城中、紅葉山より此の地に遷して宮居を建立してより代々徳川家の守護神となっていた。(以前現地で写してきた手元のメモより)
なのだそうですが、
品川宿のほうでは、第一京浜の向こう(西側)の品川神社がそのご由緒に、
『後鳥羽天皇の御世、文治三年(1187年)に、源頼朝が海上交通安全と、祈願成就の守護神として、安房国の洲崎明神である、天比理乃命(あめのひりのめのみこと)を勧請して、品川大明神と称し、今は社名を品川神社と改めた。』
とありますね。
http://www.tokyo-jinjacho.or.jp/syoukai/09_shinagawa/9001.html
安房国の洲崎神社は館山市にあるそうです。

コメント前出のとら子さんのブログによりますと、北品川あたりは、この品川神社の氏子のようですね。
となると南品川(目黒川以南)は荏原神社の氏子になっているのかしら? わたしはこの地で、もうひとつの大きな社であるその荏原神社が、品川道(甲州街道の渋滞を避けるウラミチとして時折利用していたのですが、何故調布や府中に在って品川道なのか? 随分不思議でした。)を経て、府中の大国魂神社と関係があることに、品川宿を訪れるようになってから興味を持っていたのです。
品川区のHPより、
http://tinyurl.com/2566ags
とか、
http://tinyurl.com/2codu7h

>M.Niijimaさん
神社系の資料をありがとうございます。やはり各地との関連が出てきますね。ところで、僕がここで思い浮かべていたのは、以前に拙ブログでもとりあげた、大阪摂津と佃島との関係でした。

江戸期の東京湾岸の開発には、江戸は言うにおよばずですが、千葉南部から神奈川にかけて、大阪摂津の出身者が関係しているようです。
それを裏付ける興味深い事実が、じんた堂さんのブログ (http://bit.ly/95hTp6) に書かれていますが、深川に住吉神社より分霊された小祠が存在する...ということでした。

そんなわけで、北品川の洲崎(利田神社のあたりをそう呼んだという説明板がありました)という語を目にしてからというもの、もしや深川の洲崎と...との思いが頭から離れなくなったのでした。それが、Niijimaさんがコメント中でも触れていらっしゃいますが、洲崎神社は安房国(千葉南部)由来...。なんだか益々妄想力を刺激してきますね(^^;
また、道...という方向は考えていませんでしたが、そちらも掘ればあれこれザクザクと出てきそうですね(^^;

おはようございます。masaさん、昨日はどうもありがとうございました。

M.Niijimaさんのご指摘のとおり、現在の住居表示でいうと北品川となっているところ(御殿山地域も含めて)は、品川神社の氏子と考えていただいてよろしいかと思います。対して南の天王、荏原神社は南品川のほぼ全域と東品川の一部と思われます。

品川史料「品川の天王祭」という本があるのですが、それを開いてみますと、昔は洲崎地区は南品川猟師町といい(厳密に言いますと寄木神社のある地域を洲崎地区といい、利田神社がある場所-洲崎地区の北部-はその新開地である利田新地といったようです)、「目黒川の河口の湾曲した部分にあって、目黒川の運ぶ砂が堆積してできた土地なので洲崎と呼ばれた」とあり、「南品川三丁目の人が移り住み町となった」そうで、「大阪から品川へ移った高石姓のものが多かった」そうです。本にはその以上の記述はありませんでしたが、なんだか気になりました。ちなみに南品川三丁目とは品川寺のあたり、駅でいうと青物横丁のあたりです。

荏原神社のお祭りは別名「かっぱ祭り」とも言われ、昔から神輿の海中渡御で有名です。今は海は埋め立てられてしまったので、お台場海浜公園まで船で神輿を運んで担いでいます(笑)

>とら子さん
おはようございます。昨日は突然お邪魔し、失礼いたしました。
北品川一帯の地区と名称の説明...ありがとうございます。せっかくその辺りを書いていただきましたので、それが理解しやすいよう(主に自分のため(^^;)、本文のほうに、江戸・明治・現在の地図をアップしておきました。(明治の地図で、利田神社の前身という弁財天は記載されていますが、、利田神社の位置が動いているように記載されています。これは地図の誤りなんでしょうか、それとも...なんて新たな疑問も生じますが...)
しかし、「大阪から品川へ移った高石姓のものが多かった」のくだりがいよいよ気になります。「大阪」の文字で出てきましたね! こうなってきますと、利田新地を拓いた利田家の由来などが気になりはじめます(^^;
ま、いずこも...ではあるのですが、ここ北品川一帯...そーとーに興味深い土地ですね。

とら子さん、品川の氏子の関係、および南品川猟師町、利田新地についてのご教示をありがとうございました。

masaさん、大阪という名称がちらりと出てきましたね。もう気になって気になって、今夜、千代田の図書館に立ち寄ってきてしまいました。品川のほうへ行ったほうが資料が揃っているでしょうが、彼方はどうやら本日休館日のようでしたので。
で、まずはweb(品川歴史館)からの引用です。

” 江戸内湾で本格的な漁業が行われたのは江戸時代以降のことです。上方から先進的な技術を持った漁師が移住し、地元漁民と融合して漁村が形成されました。品川区域には品川浦(南品川猟師町)と御林浦(大井御林猟師町)の二つの純漁村ができ、江戸城に魚を納める「御菜(おさい)八ヶ浦」として発展しました。
 また18世紀はじめには海苔の養殖が始まりました。品川で作られた海苔は浅草の海苔問屋に運ばれ、「江戸名産浅草海苔」として全国に知られました。また、海に立つ海苔ひび(海苔を育てるために、海中に立てる木の枝)は、品川ならではの光景として、浮世絵や本、旅日記などに取り上げられました。”
(品川歴史館 常設展示 のページ、「近世の品川 ■漁業 の項より)
http://tinyurl.com/2f5snoo

品川における「上方から先進的な技術を持った漁師」の頭領と思われるのが、本田九八郎という人物のようです。また長くなりますが引用させていただきます。

”天正年間(1573〜)、豊臣氏の家臣、本田九八郎が東下、当地の漁業を中興したと述べている。
 本田九八郎は大坂夏の陣で西軍が敗れ、主家の宿怨をはらすため一族郎党三〇余名と共に江戸へ下ったが、すでに徳川幕藩体制が固まり、志を達することの不可能を覚え、一族ともに品川浦に定住し、故郷瀬戸内海の漁法打瀬網、流れ網漁を操業して、品川浦の漁業改良に貢献した。
 本田九八郎は仏門に入ったが、漁業に転向した一族の子孫は現存し、屋号を泉屋といっている。これは本田家が大坂夏の陣において泉口の守将であった縁による。参考文献=『東京都内湾漁業興亡史(同刊行会編)』”
(引用は、「江戸東京湾事典」江戸東京湾研究会編、新人物往来社、1991刊 より)

また、仏門にはいった本田九八郎は現品川二丁目の心海寺の開祖との伝承もあるようで京都東本願寺との本末関係古文書を所蔵していると、同書にありました。

ただしこの資料に書かれた元号、年号ですが、関ヶ原(1600)、大坂夏の陣(1615)ともに慶長年間(1596〜)になってからのことですから、それ以前の天正のころに東下したというのが疑問です。

前述の、
また、仏門にはいった本田九八郎は現品川二丁目 →現南品川二丁目
に訂正です。失礼をいたしました。

で、長くなったので分けて投稿です。こんどは利田家について、

” 利田家は、1583(天正11)年の北条氏照朱印状の宛所の鳥海和泉守を祖とするといわれ、南品川宿(本宿)の名主を世襲してきた。当家は、南品川漁師町に接した洲崎の突端を埋め立て、1774(安永3)年に利田新地を開た。1834(天保5)年に検地され、『旧高旧領取調帳』では6石余、南品川新開場・利田新田とも呼ばれた。利田家の当主は、初代太郎左衛門−藤右衛門−茂兵衛−吉左衛門−権次郎−吉左衛門−吉左衛門−吉左衛門、明治期に入り、邦高− 邦温である(『品川町史』上巻、1932年)。”

コピペの元は国文学研究資料館図書館のアーカイブより
「武蔵国荏原郡南品川宿利田家文書目録1697-1871」のページから
http://tinyurl.com/272qkyv

「武蔵国荏原郡南品川宿利田家文書目録」という文書はどうやら名主としての利田家が収めた年貢の記録のようです。

長々と失礼をいたしました。

>M.Niijimaさん
こんばんわ。ブログ主がノホホンとしてますのに、Niijimaさんは図書館にまで立ち寄って調べ物をなさり、その収穫を残してまでいただき、大変ありがとうございます。

しかし、やはりと言いますか、のっけから「上方から先進的な技術を持った漁師が移住し...」というのは刺激的です(^^; こうしてみますと、年代の問題は残るものの、やはり江戸の漁業は大阪出身者で占められていたようですね。
しかし、なぜそれまで...という気がしませんか? 何か決定的な理由があるはずですよね。こんどはそれが知りたくなります(^^;
また、利田家のほうは、どうやら、この地のローカルと見てよさそうですね。

ところで、こうしてみますと、この頃の漁村は川が海に注ぐところにできていますね。ということは、洲崎に戻るようですが、漁にとっては、洲と汽水が重要だったということの証ですね。

また何か気づいたことがあったら書き込みます。

全国にあった遊廓の絵はがきを集めた筑摩書房の『遊郭を見る』に、何故か『品川遊廓』と八王子にあった『田町遊廓』が見開き頁に並んでます。(^_^;)
因みにGoogle Earthに「東京地形地図」の等高線と陰影段彩図を半透明で表示させると目黒川河口の砂州を読み取ることができます。

>iGaさん
おお、そうですか、筑摩書房の先を見越した編集に驚きますね(^^;(^^;

ところで、最近はあまりGoogle Earthを活用していませんでしたが、半透明表示という手がありましたね。やってみますと、なるほど...です。等高線が見事に砂州の形状を表示しますね。残ってますね〜土地の記憶が(^^;



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